地域づくりブログ

聞き語りで綴る、地域に新たなナリワイや活動を生み育てる人たちの知恵や苦労話

漁師と会える直売所 「うみてらす豊前」の誕生物語

 宇島港のすぐそばにある「うみてらす豊前」。H28年6月にオープンし、まだ2年も経っていない水産物を中心とした直売所です。2階には食堂が併設されており、周防灘を眺めながら、魚料理を食べることができます。1階の直売所は、いけすが真ん中にあり、漁師が生きたままの魚を放り込んで去っていく姿に衝撃を受けました。横では漁師の奥さんがお客の質問に答えながら、目の前で魚を捌いてくれます。漁師の顔が見える豊築漁協が運営する公設民営の施設です。どうやってこの施設が生まれたかとても気になったので、施設の構想から施設の立ち上げまで関わられた「はまげん」の石谷さんに話を聞きにいってきました。

 

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1階が直売所、2階に食堂が入った「うみてらす豊前


Q.そもそも石谷さんはどうしてうみてらす豊前に関わるようになったんですか?

 H19年に転勤で宇島にある豊前海研究所に赴任してきたのがきっかけです。今はコンサルタント会社を経営していますが、当時は福岡県の水産海洋技術センターの職員でした。豊前海はカニが多く取れるのですが、安値で取引されていて、佐賀の竹崎に流れている現状をみて、漁協で直売してみませんかと提案してまわっていました。


Q.地元が売りたいという意識だったんでしょうか

 漁協に提案したら、「あんたが売ってくれ」と、全く興味がないという状況でした。転機となったのは、H20年2月の新北九州空港開港イベントです。東京の早稲田のリーガロイヤルホテルで700人の参加者に蒸した豊前本ガニを提供したのですが、足りなくなるくらいの大人気でした。この様子をみた漁協の組合長の目の色が変わり、同じ年の11月には漁協で買い取ってカニの直売をはじめることになりました。

 

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豊前本ガニの直売を始めたころの様子


Q.私も当時買いに行ったことがあります。倉庫で販売していましたよね?ほんとにここでいいのかなと不安になったことを覚えています

 販売も漁協の事務職員たちがやっていて、はじめはなんで「私たちがしないといけんの?」という雰囲気でした。今では、職員がカニを持っただけで仕分けられるくらいです。


Q.あの方たちは漁協の事務員さんだったんですね。なんでもされますね。食堂もそうなんですか?

 カニの直売を始めたほぼ同時期(H21年2月)に、高校の合併で余った温室を移築してかき小屋(冬季のみ)を始め、4月からは「うのしま豊築丸」として営業をはじめました。食堂を提案したのは組合長ですが、漁協を定年退職する女性職員が代表になり、漁師の奥さんたちと始めました。
 当初は、周りの工場の人たちをターゲットに500円の日替わり定食を出していたんですが、取れる魚は頻繁には変わりません。焼く・煮る・天ぷらだけでは、日替わりといえず、すぐ飽きられました。500円では原価が安くてまともに魚も使えません。もともと温室の建物には、クーラーもなくて蒸し風呂状態といった問題もありました。お客も年々減っていき、H24年には夏場だけでも閉めた方がいいのではと相談されました。

 

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温室を再利用したカキ小屋。春からは食堂「豊築丸」として営業していた


Q.当時どんなアドバイスをされたんですか?

 地元は来なくてもいいから北九州をターゲットに定食を1,000円にしようといいました。そのかわり、魚をふんだんに使おうと。日替わりを季節替わりにして、カニ、カキ、イカ、コショウダイ、ハモ、サワラをメインに御膳をつくり、年6回リピートしてもらおうと。豊前海にあるものを売ることに切り替えていきました。

 

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約2ヶ月ごとに入れ替わる豊築丸の季節がわりメニュー


Q.高く売ることに抵抗はなかったんですか?

 すごくありましたよ。地元の人が高いといったり、その値段で売れるのかと心配するんです。なので、少しずつ値上げしました。500円の定食を残したまま新しい800円のメニューを考えます。ある程度したら、今度は1,000円のメニューを考えて、500円のメニューは外していくという感じです。実際に、高い方から売れていくのをスタッフも見ているので、安いメニューをはずすのは問題なかったと思います。そうして一般向けの定食を変えて、ターゲットの客層を絞っていきました。


Q.料理とかは誰が考えられたんですか?

 鍋のだしの味付けや天ぷらの提供の仕方などは、食品加工アドバイザーの尾崎正利さんや料理人の友人に協力してもらいました。量や見た目などは、お盆に料理を並べて、みんなで「野菜を一品足そうか」「夏場は豆腐がいいんじゃない」と話しながら決めました。そのようなことを繰り返しながら、内容を豪華にしつつ、現在は1,500円から2,000円の値段になっています。


Q.うみてらす豊前の話はどこから出てきたのでしょう?

 H25年に豊前市長になった後藤さんがフィッシャーマンズ・ワーフをつくることを公約に掲げて当選しました。その実現に向けて直売所と加工所と食堂を併設した施設をつくりたいという相談を受けたのがきっかけです。施設コンセプトなどを基本構想から関わらせてもらいました。ちょうど、コンサルタントとして独立したときで、実績もまったくない中、よく任せていただいたと思います。

 

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直売所の真ん中に配置された生け簀。漁師が直接魚を補充します


Q.直売所のイメージというのは最初からあったのですか?

 他の事例などもみていて、漁師の奥さんたちの対面販売をしたいというのはありましたね。そもそも私は食堂より直売所をやりたかったんです。食堂でイカを100杯分使ったとしても、トロ箱でいうと10箱ぐらいです。漁師の取扱量としては少なくて面倒な量なんです。食堂はあくまで客寄せで、魚を直売することをメインにしたいと思っていました。実際、温室で食堂をしていたころも、昼市といって倉庫前で魚を売っていました。でも、お腹が満たされた人たちはなかなか魚を買いません。食べる人と買う人は違うんだと気づかされました。今でこそ、うみてらす豊前では食堂で食べた人が気に入って魚も買ってくれるようになりましたが、直売所だけ、食堂だけを目的としたお客さんは今でも多いです。

 

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温室で食堂をしていたころの魚の直売の様子。無理せず、できることからやるという取り組みの蓄積が現在に活かされています

 

 Q.直売所ではどんな苦労がありましたか?

 漁師の対面販売をしていますが、漁師も忙しいのでお客が来ないと帰ってしまいます。対面販売の手数料は8%(他は15%)と低く設定して、漁師がいることがここの魅力だから来て欲しいというのですが、なかなか伝わりません。ただ、漁師の中にも理解して毎朝コンスタントに来てくれる人がいて、協力して呼びかけてくれています。
 また、前身の食堂「うのしま豊築丸」が繁盛しだした頃、特定の漁師だけから食堂が仕入をするのはおかしいという声が出てきました。民間だったら取引相手は自由なのですが、漁協が運営しているので漁師全体が潤うことが求められます。私が間に入って、仕入れ対象の魚種の漁師が全員関われるようにしたら、今度は最初の漁師から私のせいで自分への仕入注文が減ったといわれました。もっとお客を呼んで、もっと儲からせるからといってなんとか納得してもらいました。この全体が潤うようにという点は、うみてらす豊前が出来た後も苦労する点です。

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現在の直売所の様子。対面販売ブースでは漁師の奥さんがしゃべりながら魚を捌いてくれます


Q.石谷さんをみていると、漁師や直売所の方々との距離がとても近いように感じます

 独立した当初から3年間、週4〜5日は通っていました。当時のうのしま豊築丸は人手不足で、それを補うためにパートと同じ時給でレジ打ちや皿洗いもしていました。アドバイザーに専念することになった今でこそ、来るのは週1日ぐらいですが、当時は頻繁に来ていました。笑い話ですが、いつもうのしま豊築丸にいたので、漁協に転職したと勘違いした元同僚もいるくらいです。そのおかげで、お客の状況もわかりますし、漁師やスタッフの意見も聞けます。そうしないと状況は見えてこなかったと思います。


Q.これからのうみてらす豊前について一言お願いします

 1年目の売上は当初の目標からするとまだ少ない状況です。これからは経営面に力を入れていく必要を感じています。漁協の直営で運営しているのですが、漁師の組織なので経営や責任などが曖昧な部分があります。役員や職員が一緒に経営の数字をみることなどから始めています。
 以上が、石谷さんに伺った話です。前半は県の職員として関わり、後半はコンサルタントとして継続的に関わられています。行政職員出身なのに優れたマーケティング感覚や経営感覚を持たれていることもさることながら、漁協の職員のごとくスタッフと話されている様子をみて、こうしたコミュニケーションこそが地域づくりには欠かせないものだと思いました。うみてらす豊前での取り組みがコンサルティングのノウハウの蓄積にもなっているようです。直売所そのものの話よりも事業コーディネートの話が中心となっていましましたが、これからの地域づくりコンサルタントの見本だと感じました。

 

日南市油津商店街再生の舞台裏

 宮崎県日南市の油津商店街再生の取り組みはテナントサポートミックスマネージャー(以下、サポマネ)の木藤さんが市長を超える月額90万円などで話題になり、その後実際に29もの店舗を誘致し、奇跡のまちづくりと報道もされたのでご存知の方も多いかもしれません。地域づくりの裏方に関わる人間としては、あの成果にたどり着くまでの裏方の苦労が気になります。地元の協力者もいなければ簡単に進まないからです。別プロジェクトの企画に九州大学持続可能な社会のための決断科学センター准教授高尾先生をお誘いした際、日南市中心市街地活性化事業(以下、中活事業)のチーフディレクターとして関わられていたことを知りました。実は高尾先生は、九州大学景観研究室の仲間です。由布市の景観計画などでも一緒に仕事をさせていただきました。お互いに景観分野のみならず、様々な地域づくりのマネージャーや裏方として活動をしています。ぜひ表には出てこない中活事業の舞台裏を教えてほしいとお願いして、話をしていただきました。以下、高尾先生のお話です。

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最初にオープンしたABURATSU COFFEE

◯スタートは2大組織の対立の緩和から

 まちづくりはチームプレーなので1人ではできません。私には私の舞台裏があり、市の職員にも、市民にも、サポマネの木藤さんにも、それぞれ舞台裏があります。それが油津のまちづくりの良かった点です。それだけみんな必死だったし一生懸命でした。私の話は油津のプロジェクトの全体像ではありませんが、まちづくりがどのように進んだのか、私からみた舞台裏をお話したいと思います。
 日南市には内陸に城下町飫肥があり、車で10分ぐらい離れた港に油津があります。飫肥杉を油津港から搬出するための港町として発展したのが油津でした。飫肥と油津は仲がよくなくて、役所はその中間にある吾田(あがた)におかれました。現在では、人口は吾田が一番多くなっています。
 私は東大土木出身なのですが、恩師の篠原先生が油津のデザイン会議(のちにデザイン部会に縮小)のメンバーでした。ある日、中活事業のコーディネートをしてほしいと電話があり、二つ返事で受けたのが関わるきっかけです。以前務めていた会社で油津に関わったこともあり、元気のない商店街のイメージを持っていました。大変な仕事を受けてしまったというのが第一印象でした。
 当時、油津商店街はデザイン会議(いわゆるよそ者)と中心市街地活性化協議会(地元有力者)という2つの組織があり、複合ビルの開発を巡って対立している状況でした。どちら側にも入っていない人をコーディネーターとして真ん中に据えようと、日南市の発案で九州工業大学(当時宮崎大学)の吉武先生と私が呼ばれたようです。
 デザイン会議と中心市街地活性化協議会は、どちらも油津をよくしたいという思いは一緒ですが方法論が違います。お互いがほとんど話をしていないのが現状で、批判が間接的に伝わるのが問題だと感じました。両者がテーブルについた70人あまりの油津まちづくり会議(以下、まち会議)を設置して、最初に「油津基本方針5か条」というものを提案し、“長い目でみて地域のためになることをしよう”という総論の確認を行いました。会議や飲み会を1年間続けることで、深く理解しあうほどではありませんが、誤解と対立は大分解けたと思います。

油津まちづくり会議の基本方針5か条

  1. 油津地区は、日南市の「中心市街地」としての役割を担っており、本会議で検討される事項は、油津地区の地域社会、地域経済の向上を目的とすると同時に、日南市全体の地域社会、地域経済の向上に貢献するものでなければならない。
  2. 本会議で検討される事項は、他地域の物まねではなく、「日南市オリジナル」の豊かな暮らしの創造を目指すものでなければならない。その際、本会議で目指す「豊かさ」については、経済的なものに加えて、精神的なもの、文化的なものなども含めた総体的なものとして考えることを基本とする。
  3. 本会議では、今後、中心市街地である油津地区と市内外の各地域がどのように連携していけるのか、その中で、油津地区においてどのような施策・活動を展開することが効果的であるのかについて、検討を行なうものとする。
  4. 本会議では、日南市における次世代の暮らしを常に意識し、10年後、20年後、50年後の日南市の地域社会と地域経済に貢献することを基本方針としながら、今年、来年、再来年と言った現在から近未来に具体的に何ができるのかについて検討することとする。
  5. 本会議を軸とした油津地区におけるまちづくりの取り組みは、今後、日南市の他地域におけるモデル的な存在となることを意識して、官民協働におけるまちづくりの推進方策について、常に評価、検証を行ないながら検討を進めることとする。

◯まちづくりの下ごしらえで60人にヒアリング

 1年目は、他に地域のヒアリングをしました。まち会議のメンバーは年配の方が多かったので、「若くて元気な人はいませんか」と呼びかけると役所の人はみんな「いませんねぇ」という反応です。今、木藤さんの周りにいる人をみるとこんなにいるんだという感じですが、当時は見えていない状況でした。油津に限らず、日南市内で面白い人がいれば話を聞きましょうと60人余りにヒアリングをしました。日南市に行くときは毎回2泊3日でヒアリングと飲み会の繰り返し。最初は役所からの紹介で聞きに行って、数珠つなぎに花屋やカフェなど、面白いといわれる人に話を聞きに行きました。その中から20人ぐらいをピックアップして交流会などを行いました。その参加者から木藤さんの応援団が10人ぐらい生まれています。まちづくりの下ごしらえをしていたような状況でした。
 60人余りにヒアリングをしている間、「なぜ油津が中心市街地なのか」ということを全員に言われました。飫肥は元気だし、吾田も人口が集まっている、油津は衰退しているのに、なぜそこに力を入れるのかわからないということでした。
 中活事業の採択を受けるには、中心市街地としての基盤ストックがあること、そこが良くなることによって周りも良くなる中心性があること、衰退していて危機的状況にあること、という3つの要件を満たす必要があります。そのため、飫肥も吾田も油津も中心市街地だけど、中活事業の要件を満たすのは油津なんです、ということをシンポジウムなどを通じて丁寧に説明しました。ただ、市民には不平不満が溜まっていたようで、中活事業1年目の途中で中活事業の中止・廃止を公約として掲げた崎田市長が当選しました。

◯油津まちづくり行動計画(案)づくり

 もうひとつ、「油津まちづくり行動計画(案)」というものを提案しました。これは常に更新し続けるという意味で(案)をとらず、事業期間の5年間ずっと更新し続けたものです。油津の中活事業は全部で50事業ほどありますが、事業は各課から挙げてもらったものが多く、内閣府に計画の認定を受ける過程で担当者が変わるなどして、事業の位置づけや関係性などがよくわからないものが多く見られました。中活事業自体はあまり変えられないので、スケジュール別や場所別に並べてみて、5年間の事業として整合性が取れているのかということをまち会議の下のワーキングで議論し、ロードマップの再編などを行いました。
 ワーキングは中活事業のマネジメントを行う心臓部だったと思っていますが、5年間で30回行いました。事業担当課が入れ替わりで事業進捗を説明し、課題などを整理します。1回あたりの会議が5時間近くに及ぶ長丁場の会議でした。ワーキングで整理したものを上部のまち会議に諮るのですが、まち会議自体は情報共有と割り切っていたので、実質的にはワーキングで調整を取り仕切っていました。

油津のまちづくり年表

年度
出来事
2012年度 事務局協議で「油津まちづくり会議基本方針五箇条」提示(6月)
油津まちづくり会議ワーキング設置(6月)
油津まちづくり会議設置(8月)
日南市庁内まちづくり懇談会(年度内5回)
内閣府 日南市中心市街地活性化基本計画 認定(11月)
2013年度 テナントミックスサポートマネージャー公募(4月)
事業委員会設置(5月)
木藤氏選定(6月)
まちなかフリースペースYottenオープン(8月)
株式会社油津応援団設立(3月)
油津地区都市デザイン会議を油津まちづくり会議と統合(3月)
2014年度 ABURATSU COFFEEオープン(4月)
デザイン部会設置(5月)
第1回中心市街地活性化事業シンポジウムを開催(11月)
油津赤レンガ館2F コワーキングスペースオープン(11月)
二代目湯浅豆腐店オープン(2月)
2015年度 油津軒下イロドリ市(4月)
土曜夜市復活(7月)
油津Yotten、あぶらつ食堂オープン(11月)
ABURATSU GARDENオープン
2016年度 日南市観光案内所開設(12月)
市民活動支援センター(創客創人センター)開設(1月)
油津まちづくり会議閉幕(3月)
2017年度 複合ビル「ふれあいタウンIttenほりかわ」オープン(4月)
子育て支援施設「ことこと」オープン

◯まちづくりの持続性を期待されて木藤さんが選ばれる

 中活事業の中には、柱になる事業と枝の事業があって、木藤さんが関わったテナントミックスサポート事業は3本柱の1つともいえる重要な事業でした。当初、担当係長がワーキングに説明に来た際は、テナントミックスの計画をコンサルタントに委託してつくるという話でした。それを個人に発注した方がいいという提案を私が延々繰り返したこともあり、結果的に個人に発注することになりました。月額90万円というのは、もともとコンサルタントへの委託料を単純に12ヶ月で割ったものだったのですが、メディアに取り上げられたこともあり、全国だけでなく世界中から333人の応募がありました。
 商業に詳しい人なども入ったテナントミックス事業委員会を立ち上げて、そこで5時間半かけた会議で10人に絞り込みました。このプロセスの過程で、事業委員会のメンバーが、まちづくりの持続性を考えて、商業やテナント誘致の専門家ではなく、コミュニティデザインのできる人を呼ぼうという意識の共有ができたことが大きかったと思います。
 その後、商店街の空き店舗を活用した公開プレゼンテーション(1次審査)や2次審査を経て選ばれたのが木藤さんでした。その後は、木藤さんが地元の方々と一緒にまちづくりを進めていった取り組みがほとんどです。ワーキングはほとんど関わっていません。ただ、事業委員会は、テナントミックス事業が終わるまで継続することになっていて、毎年木藤さんの成果を採点していました。最初の2年間は空き店舗に1件しか誘致できなかったので、周囲からは非難の声が強かったのですが、「採点するのは自分たちだから心配するな」と応援する事業委員会でもありました。

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油津商店街の店舗誘致数の推移

 最後に、中活事業の評価は定住人口や通行量などが評価軸になっていますが、まちづくりの評価としては最終的な結果しか評価されません。「まちづくりはプロセスだ」という気持ちもあって、中活事業のプロセスそのものを評価したいと思いました。5年目は中活事業を通じてまちづくり事業を企画する側の人がどれだけ増えたのか、といった人づくりの部分も評価したいと思い、国の評価だけでなく、評価軸自体を自分たちで考えようと、これまで中活事業に関わった人たちに記事を書いてもらった評価報告書をつくっています。こちらはネットにもあるので、閲覧してもらえればと思います。

日南市中活事業報告書URL
http://www.city.nichinan.lg.jp/main/c618e53e6e4506785ba9c506a742c8e4.pdf

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日南市中活事業の体制図(最終時点)

◯中活事業で得た財産を活かしたまちづくり

 以上が高尾先生のお話でした。その後に参加者との意見交換を行ったのですが、そこでは地元の覚悟とまちづくりの持続性についての話題になりました。油津の中活事業は少なくない額の補助金を使っていて批判もあった事業なので、市の担当者も覚悟とエネルギーが必要だったようです。高尾先生の話の中にもなんども職員の名前が出てきましたが、関係する組織運営だけでも相当大変です。市民への説明などでは職員が矢面に立つ場面も少なくなかったそうです。
 市長の交代や中活事業の終了を経て、油津ではこれまで外部から関わっていた人たちはほとんどいなくなってしまいました。油津全体のコーディネートをしたり、まちづくりを引っ張っていく人は民間にも行政にも少なくなっているそうです。中活事業後の話を聞くと落差を感じて悲観的になってしまいますが、誘致した店舗やまちづくり会社の油津応援団は活動を続けています。
 もともとまちづくりがなかったところに、まちづくりの新しいプレーヤーたちが集まり、母体ができたことは得難い成果だと思います。外部の人も頻繁には来れなくなったかもしれませんが、ネットワークでつながっているし、応援もしてくれるはずです。今回の中活事業で得た財産を活かして、新たなプレーヤーたちがこれからどのように油津のまちを盛り上げていくのか、私はむしろこれからのまちづくりに期待したいと思っています。

※写真、資料等はすべて日南市中心市街地活性化事業報告書から抜粋

地震で被災したマンションの維持管理のススメ方とは?

 藤野さんはマンション管理士として活動されています。法律やマンション内の住民コミュニケーションなどに明るく、普段は福岡市内のマンション管理の顧問などをされていますが、現在、熊本地震で被災したマンションの管理にも携われています。被災マンションの維持管理がどのように進められているのか、その取組状況について伺いました。マンションの防災組織のあり方などについてもお話いただきましたが、今回はマンション躯体(建物)の話に絞って紹介します。

◯被災マンションの早期の取り組みの必要性

 地震の被害を受けたとき、被災者が何を思うかというと、「このマンション住めるのか」、「赤紙ってどういう意味?」、「お金はどうすればいいの?」ということに尽きる。これに悩んでいるだけで2か月ぐらいがすぐ過ぎてしまう。

 熊本地震で被災したマンションの数は明らかではないが、罹災(りさい)証明で全壊と認定されたマンション棟数は18棟となっている。柱が損壊し、一階が失われたようなマンションであれば、あきらめもつき、解体に向けた協議が進むのだが、問題は直せるレベルの被害の場合である。鉄筋がむき出しになるぐらいの被害は、新耐震のマンションでも起こりうる。実際にそういう被害のマンションが熊本でも多いのが現状である。私が関わっているマンションでも同様の被害を受けて、現在復旧工事の見積もりを取っている段階である。築20数年の50戸前後で一億数千万の見積もりが出そうである。ただ、地震後1年半ほど居住しておらず、給水管や排水管を使用していなかったため、ライフラインの復旧費用や耐震診断も必要であり、さらに費用が高額になる可能性がある。

 被災マンションの対応は、行政も後手に回っており、地震後の混乱で罹災証明の連絡などの初動がどうしても遅れてしまう。初動が遅れ、検討期間が長くなれば、工事業者も確保が難しくなり、工事費も高額となってしまう。住民の生活再建のためにも早期の復旧はかかせないのだが、そのためには被災した場合の対応について、事前に知識を持っておくことが重要になる。

◯被災マンションの診断は4種類

 地震を受けた時の建物の評価を行う診断は実は少ない。「応急危険度判定」、「罹災証明」、「被災度区分判定」、それと「地震保険」の4つである。応急危険度判定は二次災害の予防のため、地震後すぐに行われる。赤紙(危険)、黄紙(要注意)、緑紙(調査済)の判定が行われ、これは拒否できない。罹災証明はお願いしないと来てくれないが、無料で診断してくれる。全壊、大規模半壊、半壊、一部損壊の4区分である。

 罹災証明は行政からの支援をもらうために必要なものである。被災度区分判定は、建物を復旧できるかどうかを見るものである。これは有償になる。合意形成がスムーズに行くマンションでは、この判定を経ず、復旧工事に舵を切る事もある。地震保険はマンション総合保険にオプションで加入する保険だが、地震保険の認定を請求すると保険金算定のために鑑定人が派遣され、そのマンションの損傷具合を診断する。全損としての場合でも付保割合(保険金の掛け率)を低くしてしまうと、もらえる保険金がかなり少なくなる。そうしたところも注意しておく必要がある。地震の判定は、この4つしかないので、それぞれの判定の役割をきちんと理解しておく必要がある。

 

被災建築物の診断の種類と判定内容

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◯復旧や建替えに向けた手順

 被災度区分判定で、「軽微」、「小破」と診断された場合は、すぐに復旧に向けて動き出すのだが、問題は「中破」、「大破」と診断された場合である。この場合、復旧は可能なのだが、費用がどれくらいかかるかが問題となる。詳細調査と概算費用の算出が必要になるが、これにもお金がかかる。法的には必要な調査ではないが、合意形成のために必要なものである。

 手順としては、まず被災度区分判定を行うかについての総会が必要であり、議決後、調査を行い、結果の報告会と兼ねて詳細調査を実施するかについての総会が必要となる(調査費が数百万円と高額なため)。その後は、「復旧」するか「取り壊し」するかをいきなり決めるのではなく、復旧推進決議もしくは取り壊し推進決議(管理組合として、決議に向けて本格的な計画の検討を行う旨の決議)を行う。

 区分所有法は敷地売却を想定していないのだが、被災マンション法の適用を受ければ行えるようになった。熊本の場合は、昨年10月5日に被災マンション法が適用されたので、「取り壊し敷地売却」「建物敷地売却」「建物取壊し」「建替え」の決議が行えるようになる。被災度区分判定で「倒壊」という判定が出れば、「敷地売却」か「再建」を選ぶことになる(全壊の場合は建替えを再建という)。ここまでは敷地共有者の5分の4の同意が必要となる。管理組合の理事会は存在しないことになっているため、敷地共有者で新たな団体をつくって行うことになる。

 公費で解体を行うためには、申込みのタイムリミッドがあり、全員の同意書が必要となる。「建替え」と「敷地売却」の場合は、建替えを行う事業者や売却先までを決め、詳細な計画まで決議を取らないといけない。時間的余裕がないため、とりあえず、取り壊しの決議を行い、申込みを行った上で、再度建替えか敷地売却かを決めて総会を行うことが多いようだ。被災マンション法の適用から3年以内に決める必要があり、期間を過ぎると被災マンション法の適用がなくなり、手続きが非常に困難になってしまう。熊本では、後2年以内に決めてしまわないといけない。反対者も含めて全員の同意書を集めるのはハードルが高いため、本当に全員分必要かどうかについては、行政との協議を行っている。このあたりの手続きは法律的にもかなり難しい。阪神淡路大震災でも裁判になっているのはこのあたりである。法律違反がないように慎重に進めないといけない。

 

被災マンションの復旧・取壊しの手順

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◯住宅への支援制度について

 住宅に関する支援もいろいろある。災害見舞い金は全壊で5万円、大規模半壊・半壊で3万円ほどでる。このときに罹災証明が基準となる。日本財団による住宅損壊見舞金が全壊・大規模半壊の世帯に20万円でている。災害義援金は熊本の場合、全壊で82万円。大規模半壊で41万円だった(平成29年4月現在)。なお、東日本大震災の場合は全壊で112万円だった(平成29年8月現在)。また、一部損壊の住宅で、修理費用100万円以上かかったところには10万円の義援金がでる。マンションの場合、共用部の改修の自己負担額の合計が100万円を超える場合は対象となる。

 被災者生活再建支援金は、全壊で100万円、大規模半壊で50万円でている。新築する場合、全壊だとさらに200万円、補修の場合は100万円がでている(大規模半壊は新築で100万円、補修で50万円)。

 被災住宅の応急修理というのがあり、修理費用が57万円でる。ただし、居住するための費用なので、みなし仮設などに入居するともらえない。トイレ、玄関ドア、お風呂などの工事で出るのだが、マンションの場合は、共用部の配管修理などが必要な場合もあるため、管理組合が代表して申請することが可能である。

 住宅の支援は、居住のための支援であり、経済的な損失の支援ではないため、同じマンションでも賃貸部分はもらえない。被災住宅の応急修理にしても、管理組合で代表して申請しても賃貸部分の人やマンションを出てみなし仮設に入居した人はもらえないということになる。あるマンションでは、被災住宅の応急修理の費用の半分は共用部の修理に使い、残り半分は個人のトイレ修理などに使うということを行っている。しかし、こうした情報の周知や合意形成はかなり高度であり、日頃からのコミュニケーションや防災意識を持っていないとなかなか難しい。支援については行政側もまだまだ手探りで行っている状況である。

◯事前の情報収集と情報共有から

 以上が藤野さんのお話です。被災マンションの対応は、一度聞いただけでは全部は理解しきれない内容でした。私自身もこの記事を書くために、なんども聞き直しして、ようやく理解できた部分も多くあります。ゼミの参加者からは「応急修理の費用を一部の住民がもらった場合、公費解体できるのだろうか?」という質問も出ましたが、藤野さんも確認しないとわからないこともまだまだあるようです。

 こうした内容を被災時の混乱の最中に理解し、マンション住民の方々と共有した上で、限られた時間内で決断していくことは困難を極めると思いました。実際に合意形成を急ぐあまりに、内容が不十分な計画を作ってしまい、結局やり直しになったケースもあるそうです。

 マンションは戸数が多く、避難場所にいくと満杯になってしまうため、自分たちで生活再建も行っていかないといけません。マンションという財産を共有しており、集落や戸建ての住宅地よりも高度な自治機能が要求されます。しかし、実態は隣人の顔も知らないぐらい人間関係は希薄であり、管理組合も管理会社に依存しているような状況です。被災後の右も左もわからないような状況の中、余計な不信感を生まないためにも、事前の情報共有や準備が必要だと感じました。

 それ以上に、普段から住民とのコミュニケーションを図り、人間関係や信頼関係を築いておかないと、いざというときに動けません。地域の祭りや直会など、住民の人たちで何か一緒にイベントや活動をすることの重要性も感じました。早く動けるかどうかは、地震前の準備で決まっています。まず、自分がやれることとして、自分のマンションでも藤野さんを呼んだ勉強会を提案してみようかと思います。

 

 

「不動産業から家主へ」買取り運用による博多町家再生の取り組み

 

 博多に新しくできたゲストハウス「B&C Gakubuchi」の改修工事を手伝いにいったときのことでした。私の隣で、壁塗りを手伝いながら、成年後見人制度や相続のことを携帯電話で話をしている人がいました。どんな人だろうと気になっていると、ゲストハウスの人からお部屋を紹介してくれた不動産屋さんだと紹介されました。それが小林さんでした。

 不動産業者が借主のDIYを手伝うのは珍しいと思い、話を聞いてみると、古民家物件を自ら買取って、リノベーション(小林さんは再生と表現しています)して貸し出しているとのこと。片付けなども自分たちで行っているそうで、壁塗りの手伝いをしているのも納得です。「B&C Gakubuchi」の建物は、別にオーナーがいるそうですが、自ら物件を買取って運用する取り組みは、非常に興味深かったので、話をお聞きしました。

 

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小林さんと私が出会ったB&C Gakubuchi

 

◯祖母に断れてからの不動産業の創業

 小林さんは、以前東京で土木関連のソフトウェア開発会社に務められていたそうです。相当稼ぎはよかったそうですが、寝る間もないくらい働いて、疲れてリタイアされたそうです。

 「地元が博多区の神屋町なんです。祖母が家業で不動産業をしているので、家業を継ごうかなと福岡に戻ってきました。しかし、会社を辞めて戻ってくると、祖母からは今更若い人と仕事できないし、払う給料もないと断られまして…」と、アテが外れてしまったそうです。別の不動産会社に勤めてみたそうですが、「不動産業を実際やったことがなかったので、外で勉強しようと思ったのですが、3日間仕事してみて、これであれば自分でやれるかなと思いまして…」と、すぐに辞めてしまったそうです。結局自ら不動産会社である「㈱福岡宅建」を創業されます。

 「ゼロからの創業であったため、仕事がなくて、生活が不安定で、その打開策として、不動産取引の当事者である家主になりたかったですね。ただなかなか銀行からお金を借りることができなくて。そんな中、当時テレビで『劇的ビフォーアフター』や『ドリームハウス』などが流行っていました。わけあり物件の改修工事、建物の再生、奇抜なアイデアの建築等、テレビではこういったものが多く放映されていました。私もそれらを見ながら、自分でもできそうだな。やってみたいなとその熱意を温めていました」といわれるように、古い建物を建替えずに再生する取り組みがメディアを通じて認知されつつある状況でした。

 そんなとき、知り合いから「私の物件を買わないか」と声をかけてもらいます。物件も見ずに即答で購入を決めたそうです。「購入した後に初めて物件を見ました。中に入ると、スナックとして使われていたらしく、昼でも真っ暗でした。2階の床は傾いているし、天井からゴキブリが降ってくるんですよ」と、私たちからすると廃屋同然のような物件を、確かめずによく購入したと思うのですが、「自分の初めての物件ですから、嬉しくてですね。近所に挨拶廻りにいったんですが、トタンの音がうるさい、倒れそうで怖い、猫屋敷をどうにかしてほしいとクレームの雨あられでした」と笑いながら話していましたが、周りの人からも相当な危険家屋と見られていたようです。それだけに物件はそれ相応だったようですが購入後の改修資金がありません。運転資金を切り詰めて、改修費を工面したそうです。この物件の購入と改修を期に、古民家の再生を手がけられるようになります。

 

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福岡宅建が入る再生古民家。隣はフレンチのレストラン

 

◯壊しながら使い方を考える

 これまで建築に関わってことがないのに、どうやって改修を進めたのでしょうか。「テレビでは、最初にバールで壁やら天井を壊すんです。気持ちよさそうだと思って、自分でやりました。そうすると、建物の構造などがよくわかります。どうやって作られているとか、すごく勉強にもなります。また、壊している中、どうのように建物を再生したら面白くなるだろうかと色々とイメージが湧いてきます」

 小林さんは、基本的に設計士は入れずに、水道や電気などの工事を職人に個別発注しながら、改修します。工務店の役割を自ら担っています。「見積もりは取りましたが、その根拠がわかりませんでした。安いのか、高いのかも。また、工事によってはその工事自体が必要なのかも判断できませんでした。梁や天井裏、基礎が見えないのにどうして見積もれるのだろうと思って、お金も潤沢に有りませんでしたし、自分でやるようになりました」できるだけDIYで行うことで、工事費が下がる効果もあるようです。小林さんの手がけた物件は、基本的に柱を見える真壁と天井をむき出しにて小屋組みを見せるようにしているそうです。木の温かみや天井高さの開放感が生まれる一方で、空調などの効きが悪くなり、光熱費がかさみますが、建物の維持管理にはとてもいいようです。

 「最初に購入した物件がたまたま木造だったのですが、今考えると木造でよかったと思います。木造は部分的な柱の入れ替えなども鉄筋コンクリートと比べて容易ですし、階段の取替や間取りの変更なども比較的容易にできると思います」「私の場合、改修後はほとんどテナント向けに貸出しています。多くの人に触れてもらえるし、趣のある古民家でお店を作れると借手にも喜ばれるということが大きいですね」

 博多の町家も多分に漏れず、間口が狭く、うなぎの寝床のようなところがほとんどです。建替えれば、街の趣きが失われるだけでなく、建築面積も狭くなってしまいます。防火地域であれば、雰囲気のある木造建物を商売用に建築する事は難しいです。また、御供所という場所は、天神や博多駅からもアクセスがよく、飲食店などの立地も見られる地域でした。土地柄としてもリノベーションとの相性が良かったようです。

 「最初に購入した金屋小路の町家は、家賃収入から経費を引いた表面利回りが15%強です。これには建物の購入費と改修費の返済も含まれます。今、中古物件の利回りは6〜7%、新築は5%を切る場合もありますから、かなりの高利回りです。改修費も7年ぐらいでペイできます」といわれるように、ビジネスとしてもメリットの高い取り組みとなっています。

 

◯古民家に多いシロアリのトラブル

 ただ、家主業はいいことばかりではありません。不動産は経年劣化していくので、維持、保全が必要です。そのための時間やお金もかかります。突然シロアリが出てきたり、水道管が破裂したりするトラブルもあります。

 「古民家の場合、どんなトラブルがいつ起きるか想定できません。そのため、全ての契約を定期借家契約にしています。契約期間中に建物の不具合が出れば、営業をストップしないといけなくなります。そうするとオーナーは営業保証をしなくてはならないケースもあります。オーナーが途中にメンテナンスを行えるようにするためにも、定期借家契約が必要なんです」

 「それでも、契約の更新前に、シロアリでトラブルになるケースがありました」といわれるように木造古民家のシロアリはどうしても切り離せない問題です。テナントとして貸し出す場合のリスクの大きさは住宅以上だと感じました。

 

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話をしていただいた小林さん。古民家再生で御供所の雰囲気が変わりつつある

 

◯「とにかくやってみる」の見本みたいな人

 不動産業を始めてから現在で12年目。これまで6棟を買い取り、運用を行っています。また、古民家を所有するオーナーからの相談も増え、仲介や管理物件も増えています。

 小林さんは基本銀行からの融資を借り入れる事で不動産を購入しています。件数も増えているので、それなりに借入金も増えているようです。また、これからも積極的に件数を増やしていきたいそうです。よくそれだけのリスクを負えるなと思いますが、その背景には堅実なビジネスモデルがありました。

 「私が手掛ける古民家のような物件を運用する場合は、改修工事を先に行わず、借り手(利用者)を先に見つけています。だいたいの家賃条件などを設定して早々に募集をかけます。条件には家主がこんな建物として利用してもらいたい。こんな使い方(業種)をしてもらいたい。古民家の雰囲気は残してもらいたいなどのイメージを伝え、家主はここまで改修に手を加えますと説明をします」初めてのお客さんの中には、改修後の建物のイメージができず、契約できない人もいるそうですが、このプロセスを通じて家主の意向に沿った借り主を選定できるそうです。

 「マッチングを先行して、まずお客さんを探します。お客がつけば、改修工事の費用負担割合を決めます。家主がどこまで改修工事をするか、引き渡しの状態によって家賃をいくらにするか、契約内容をどうするかを先に決めてしまいます」「お客が決まれば、おおよその事業計画もつくれます。家賃収入が見込めれば、改修工事費用に銀行もお金を貸してくれます。この時点で事業計画をある程度つくってしまっています。先にお金を突っ込んだり、物件を塩漬けしたりすることなく、運用ができていると思っています」既存の概念に囚われない新しい不動産事業の一つのモデルだと思いました。

 「ボクは、お店に来た人がお客だとは思っていません。実際にその日は物件を紹介せずに一度帰ってもらいます。そのかわり、要望を聞いて調べて、後日調整した日に10件ぐらいをまとめてみせたりします」と付き合い方も独特です。合う人と合わない人に分かれるそうですが、徹底的に付き合うスタンスも魅力だと思いました。来年には糸島に移住し、郊外での建物の再生・再利用にもチャレンジしたいとのこと。農業にも興味があるそうです。私と同世代で子育て中ですが、独立しながら攻めの姿勢を貫き続ける小林さんを見ていると、やらないことの言い訳はまったくできないと思います。とにかくやってみる、やりながら考えるという見本のような人でした。

朝倉市の災害ボランティアに行ってきました

◯土日に参加してほしい災害ボランティア

 8月24日(金)に朝倉市の災害ボランティアに参加してきました。何かお手伝いをしたいと思いながら、ようやく行動に移せました。平日が人不足だろうと思ったのですが、金曜日ということもあり、700人が参加していました。現地のスタッフによると、被災者からの要請は土日希望が多く、作業もたくさんあるそうです。被災者の方々も日常の生活があり、平日は片付けまで手が回らないのかもしれません。

 

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災害ボランティアの人数は、平日と比べて土日の減少が目立っている

 

 朝倉市ボランティアセンターは、杷木パレスという元パチンコ屋に開設しています。バスを乗り継いで参加したのですが、公共交通を使った参加者は皆無でした。10時前に到着したのですが、すでに200人以上が集まっていました。受付後、初めての参加者は注意点などのガイダンスを受けます。

 長靴などが新しく、初めて参加する人が多い印象でした。大学生などのグループや50~60代の個人参加者が多く、30~40代の同世代は少ないようでした。ガイダンスの担当者は沖縄から来たボランティアでした。

 よくみると運営スタッフもみんなボランティアです。交通整理、受付、ガイダンス、運転手、道具の貸出、電話対応など、実に多様な業務があります。また、場所の提供やテント、軽トラやスコップなどの資材、水やお茶などの備品提供など、様々なボランティアのカタチがあるのだなと改めて感じました。

 ガイダンス後は、業務とのマッチングです。一応先着順なのですが、作業に応じて選択できます。内容に納得した上で手伝ってほしいという事務局側の配慮が伺えました。

 

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ボランティア作業のマッチングを待つ様子。ここで1時間ぐらい待機

 

◯被災された方の気持ちに寄り添った支援のあり方を考えさせられる

 この日は午前中に雨が降り、復旧が遅れている被災地に入れなくなっため、手伝えることが限られていました。そのため、私たちは片付けがほとんど終わった地区を手伝いました。それでも雨を含んだ泥のかき出しは大変です。

 男性10人いたので、すぐ終わると思ったのですが、結局全部を片付けることができませんでした。現地に入ったのが11時半。14時には作業を終了したので、2時間半の作業です。正直、物足りなかったし、片付けきれずに申し訳なく思いましたが、依頼者のご夫婦から「本当はもう片付けを諦めていたんです。だからほんとに感謝しています」と言われてほっとしました。

 被害がまだ残っている地域に入りたい、もっと長く作業したい、最後までやりたいというのは自分の欲であって、被災者の立場に立っていませんでした。1ヶ月近く放置された泥が少しでも片付く。少しでも前に進むことが被災された方々にはありがたいことなのだと気付かされました。

 この地区は床下浸水で済んだそうですが、この災害を機会に施設に入居したり、子どもの家に移り済んだりして空家になったところが4軒あるそうです。「盆綱引きもできませんでした」と寂しそうに話すお母さんの横顔を見ながら、片付けが落ち着いたら、終わりなのではなく、ようやくスタートラインなんだと思いました。

 現地にほんのわずかな時間しか滞在していませんが、いろいろと考えさせられます。仕事柄、長い目線で考えることが多いので、どうしても片付け後のケアをどうしていくのかが気になります。ずっとはムリでも、少しでも関わること、お役に立てることがあるのではないか。今回のお手伝いを通じて、微力の可能性を感じました。少しでも時間を見つけて、また通いたいと思います。

(被災地での写真は撮影していません)

十分な準備 - 全社協 被災地支援・災害ボランティア情報

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水害作業マニュアル。「被災された方の気持ちやペースに合わせよう/お話をたっぷり聞こう」というのは本当に大切だと痛感。

「巻き込む」のではなく「地域を頼る」コトおこし

 内山節さんに一度お会いしたことがあります。当時の糸島の仲間が、著書を貸してくれ、会合で紹介してくれました。「半市場経済」の価値観を学んだのはそのときです。自分の価値観と近い人たちがそばにいる。それを知ることができただけでも幸せでした。

 「半市場経済」とは、市場価値だけでなく、「おすそ分け」などの無形の価値を見直すこと。言い換えると他人との付き合いや信頼関係の価値を見直すことだと思います。

 都会の人の発想だと田舎にいても「こういうことを実現したい」という自己中心的な考え方になりがちです。でも田舎の人は、地域のために自分はどう役立てるかをまず考えているように思います。「住民を巻き込む」のではなく、「地域を頼って」コトを始めること、半市場経済下ではそうしたスタンスが必要だと思いました。

 「半市場経済」は、社会的な意義を大切にするので、収益性や効率性を強く求めません。しかし、継続性を考えると事業として取り組む必要があります。副業的でもよいので、地域の方々と事業を興したい、事業を通じて地域の自立に貢献したいというのが、私の思いです。主人公は地元の人たちであり、自分はあくまで裏方なのだということを意識しながら、自分なりに実践していきたいと思っています。

 

 

14年前の沖ノ島体験を振り返る

 「宗像・沖ノ島と関連遺産群」の世界遺産登録が決まったそうです。私も宗像市の観光計画や世界遺産に登録された際の観光客の影響調査などで関わらせていただいたので、うれしく思います。

 でも、沖ノ島は未だに一般人が立ち寄ることのできない「神宿る島」。その様子を語られることはほとんどありません。

 ただ年に1度、5月27日に開催される沖ノ島現地大祭は、唯一、一般の人の入島が許される日(ただし男性のみ)。2003年のその日、ボクは地域づくりのメンバーと一緒に沖ノ島の現地大祭に参加したことをニュースを見ながら思い出しました。

 探してみると、写真もけっこう残っているものです。せっかくなので、沖ノ島の様子を振り返ってみたいと思います。沖ノ島の雰囲気が伝われば、さいわいです。

 

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 現地大祭は前日から始まります。大島の中津宮に夕方集まり、受付と漁船の班分けが行わます。200人以上は集まっていたでしょうか。ちなみに、このときははがきで申し込んで、当選しました。

 

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 漁船で島に渡る人たちは、救命胴衣もこの時に借りていました。その日は島内の旅館に泊まり、朝の出発に備えます。

 

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 朝は6時半ぐらいに出発。ボクは運良く旅客船だったので、救命胴衣も不要でした。漁船に乗った人たちは、波の揺れがひどくて大変だったとか。

 

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 客船からみる漁船。客船より漁船の方がかなり到着が早かった記憶があります。ただ揺れまくり、濡れまくりだったそうです。天気は快晴でした。

 

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 2時間ぐらいかかって、いよいよ上陸。山伏の姿も見られます。このとき、三重県鹿児島県、北海道などからも参加がありました。外国人の姿はなかったです。

 

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 沖ノ島は全体が宗像大社の社有地です。女人禁制や草木の持ち帰りなどが禁じられています。

 

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 そして、入島者は全員、禊(みそぎ)をしないと島の土を踏めません。堤防は人工的に後からつくったので、禊前でも上陸できます。

 

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 服を着直して、いざ入島。

 

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 島の沿岸部をみるとこんな感じ。

 

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 島の奥は当然のことながら原生林。その中に鎮座する沖津宮で、現地大祭が執り行われます。

 

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 現地大祭の時間はおよそ1時間ぐらい。つまりそのくらいの時間しか島に滞在できません。せっかくなので沖ノ島一体を展望できるところまで登ってみました。

 

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 山頂には大きな灯台もありました(糸乘さん若いなぁ)。

 

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 沖ノ島から唯一持ち出せるのが水です。ただし、お祓いして清めてもらわないといけません。

 

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 海岸に戻ると、地元の漁師さんによる直会(なおらい)が行われていました。

 

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 参加者みんなで地魚の煮付けや刺し身をいただきました。ビールやお酒を飲んでいる写真もありましたけど、たぶん有料で売っていたように思います。

  

 以上が、ボクが14年前に体験した沖ノ島現地大祭です。女人禁制なので、参加者の奥様などが大島から見送っていたことも思い出しました。

 もう一度、行ってみたい思いはありますが、抽選の倍率は今ではとんでもなく高くなっているので、当選する気がしません。でも、このままで有り続けてほしいと思います。